エロシェンコ (1890〜1952)
Василий Эрошенко

 ロシア生まれの盲目の詩人、ワシリー・エロシェンコは、4歳のときに病気で失明、9歳でモスクワの盲学校に入りました。革命前夜の帝政ロシアの社会矛盾と、新時代の到来を求めるエネルギーにあふれたこの時代の雰囲気は、エロシェンコのその後の人格形成に大きな影響を与えたといえます。

 17歳まで盲学校で学んだ後、郷里に戻りましたが、国際語エスペラントの存在を知ってイギリスに渡り、そこでエスペラントを学びます。

 さらに、多くの視覚障害者が三療で自活している日本を「盲人の天国である」と聞いたエロシェンコは、1914年、24歳のとき、日本のエスペランチストを頼って来日。日本語もすぐに上達し、「中村屋サロン」の一員となって、童話作家・秋田雨雀をはじめ、女性解放活動家・神近市子、画家・中村彝、鶴田吾郎らと親交を結びました。

 第1次世界大戦後の社会主義運動の高まりの中で、エスペランチスト・エロシェンコもまた、日本の時代状況と無縁ではあり得ませんでした。1921年、YMCAでの講演、メーデーへの参加などの活動により、再三拘束されたエロシェンコは、ついに日本政府から国外退去命令を受けます。

 日本を離れたエロシェンコは中国に渡り、魯迅の尽力によって北京大学に「世界語」の教授として招かれました。

 1923年以後は革命後のソ連に戻り、盲学校などで教えた後、1952年、故郷・南ロシアのアブホーフカ村で没しました。



「わたしの学校生活の一ページ」より
エスペラント語の一端をエロシェンコの文章で

radiko(表紙)

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